小学校の先生を120%楽しむ毎日

超人見知り。内向型人間です。でも先生やってます。セミナー開催もしています。

45分間夢中!終わったら達成感と自信

子どもが心から楽しめて、学びのある授業をしていきたい。

 

本校では高学年ブロックで、教科担任制を導入している。

 

5年担任の私は6年の算数を受け持っている。

学年をまたいで、子どもと関わることができるのは、かなり刺激的だ。

フロアも同じなのに、授業で6年生の子どもたちと関わってみて、いかに自分が自分のクラスしか見えていないかがよく分かりました。

全然子どもたちのこと見ようとしてなかったなあ。

それぞれのクラスのなんとなくのイメージでしか見ていなかった。

 

 

そして、自分のクラスを離れて授業してみて気がついたことが3つあります。

 

1.クラスの子どもの気づかい

やはり、自分のクラスの子どもは相当担任である私に気を遣ってくれているのだと思う。

「あ、ここは手をあげなきゃ」

「ここは、返事しなきゃ」

「何かしら、コメント言わなきゃ」

「この辺まではウケを狙ってみても大丈夫かな?」

 

・・・などなど

そんなことを子どもたちは考えながら、私と授業をつくってくれているのだと思いました。

 

申し訳ない気持ち半分。

ありがたさ半分。

 

でなければ、あんなに思い通りに自分のクラスの授業が流れていくわけがない。

 

その点、6年生の子どもたちの、授業における反応は非常に素直で分かりやすいです。

 

反応しようがない発問に関しては無反応。

興味がもてなければ、うつむく。(そのままノート職人になる子も)

謎すぎる発問だと、周りの友達に「どういうこと?」と確認する。

 

・・・クラスだと、微妙な発問や投げかけをすると、

「先生、それってこういうことですか?」みたいに子どもが、こちらの思いを汲み取ろうとしてくれたのに・・・

いや、まあその時点でダメなんですけどね。どんだけ、子ども頼ってんだ。

 

 

まあ、なんというか・・・6年生の子たちを見ていると

よく分からない親戚のおじさんが、家に来て、めちゃくちゃ話しかけられているときの子どもの反応に近いものを感じています。(分かりづらいですかね?)

 

要するにしっかり授業を考えていかないと、だだ滑りするんです。

もういたたまれない。消えて無くなりたい。

そんな気持ちになります。

 

 

 

2.なんちゃって対話の危険性

 算数では子どもには安易に「対話して」と、指示を出していますけど、実際、やっていることは学び合いタイムですね。

(自然発生的に対話したい、と子どもから出てこない時点で教師主導のつまらん授業だと思いますが)

 

さて、授業の中で学び合いをスタートする前に目標(評価)を共有します。

 

S…図や文などを用いて、自分の考えを、ノートを見れば一目見て分かるように表せている。

さらに、自分のノートをもとに説明し、だれかのレベルをアップ(全く分からない人をBに、BをAに、AをSに)を助けることができた。

 

A…ノートに書いた自分の考えを、対話の時に、説明することができる。

 

B…なんとか、答えにたどり着いた。

 

 

対話(学び合い)自分の理解度のレベルアップを目的に行なっています。

 

 

うーん

 

…でもね。

 

 

この学び合いタイム、飽きるんです。ダレるんです。そして、関係ない話を始めます。

 

そりゃそうですよね。

燃えるものがない。

問題を自分一人で楽勝で解けるのに分からない友達を探して、教えて引き上げる。

それで、Sをもらっても嬉しいんですかね?

 

現状、子どもたちは

「先生、分かったって、言ってもらえたから、俺Sランクでしょ?」

なんて、聞いてくるけど…

いずれ、飽きるだろうな。

 

もっと協働する必要性のある問題設定ができればいいのかな?

 

そうすれば、対話する必要も増えるだろうし。

 

 

いや…

 

そもそも、対話は板挟みの問題に挑む時は有効だけど、正解がある問いに対しては、あまり意味がない気が…

 

そうなると、正解が明確な算数で、そもそも対話を行う必要はない?

 

 

うーむ…この辺を突き詰めて考えていけば、もっと良い授業になると思うのですが…

 

 

3.子どもが次に何をしたいか思い浮かばない授業展開

これ、やっちゃってました。

私は主体性を大事に育んでいきたいと、思っています。

 

以下のような授業の流れを伝え、子どもに時間配分を考えさせて、授業の進行を任せています。

 

問題確認

個人思考

対話

全体共有

まとめ

感想

 

昨年度はこのやり方で、子どもから対話したい、とか、全体共有したいというつぶやきが聞こえ、進行役の子が、そのつぶやきを拾って授業を進めていきました。

まあ、本当に主体性を発揮していたかは、疑問ですが、自主性は養われていたのかなあ、と思っています。

 

しかし、そもそもこのやり方って不自然ですよね。

 

本当に子どもが主体性を発揮していたら、こんな型通りに授業が進むわけがない。

 

子どもが次から次へと活動し、学んでいくような仕組みではなくて、きっかけが弱い。

 

やっぱりやらせているんです。

 

6年生に、授業の進行をやらせてみて、まさにこの「やらしている感」をひしひしと感じ、そのことに思い知らされました。

 

 

子どもが勝手に学んでいく、そんな問題を用意しておきたいし、自分たちでハマれる問題を見出すことができるようにしていきたいなあ。

 

 

そうすれば、記事のタイトルのような授業ができるのかな、なんて思ってます。