小学校の先生を120%楽しむ毎日

超人見知り。内向型人間です。でも先生やってます。セミナー開催もしています。

ギバーのメンタル

人に与えようとするメンタリティを保てているときは、非常に心が穏やかである。それは、つまり、心に余裕があるからこそ、与えようという発想も生まれ、その結果さらに心の充実を感じ心が穏やかになるという、正のスパイラル。

逆に、自分のことでいっぱいいっぱいで心が穏やかでない時、人に与えようという発想はなかなかうまれない。

 

今日はこの辺のギバーのメンタルについて、本から情報を仕入れたい。

 

私のような急造ギバーではなく、本物のギバーたちは、逆境の中でも与えようとするのだろうか。

 

・・・私の身の回りを見る限り、

「この人ギバーだな」

と思う人は、自分が辛い時でも相手を優先する。

例えば、自分のクラスがうまくいっていない時や、忙しい時も話を丁寧に聞いてくれたり。

 

なんだか、私はそういう人をみると、大丈夫かな。無理しすぎてないかな。と思っていた。

 

 

しかし、本の中でこんな一節を読んだ。

 

 

GIVE & TAKE 「与える人」こそ成功する時代 (単行本)

GIVE & TAKE 「与える人」こそ成功する時代 (単行本)

 

 

ギバーは頼り合うことが弱さとは考えない。頼り合うことは強さの源であり、多くの人々のスキルをより大きな利益のために活用する手段だと考えている。

 

なるほど。

しかし、そもそもなぜ、ギバーはこのようなメンタリティをもっているのか?

 

これは生まれ持った資質なのだろうか。

だとすれば、後天的にギバーとなることは不可能なのだろうか?

 

疑問はたくさん浮かぶ。

 

しかし、この著書は述べる。

ギバーであることは、人間の本性だ。もともと人間がもっている本性を正面から見据えて理解すれば、人間は自然とあるべきギバーに戻っていく。

 

ただ、とはいえ、切実な問題として、我々は生きていくために働かなければならない。

最初の私の疑問につながるが、自分の生産性を犠牲にして、他者に与えるという行為は果たして、人間の本性なのだろうか。

生き残るために、自分のすべきことを優先し、他者に与えることを後回しにするのは、それこそ人間の本能に根ざしたことなのではないか。

つまり、冒頭で述べた。

いっぱいいっぱいで心が穏やかでない時、人に与えようとする発想はなかなか生まれないことは、当然のことではないだろうか。

 

「与えることと生産性の折り合い」の問題が浮かび上がる。

 

しかし、なんと、その折り合いをつける鍵が

「より多く与えること」

らしい。

 

これは、簡単な理屈で、与えることで信頼関係が築かれ、助けた人だけでなく、グループ全体から有益な助けが得られ、高い生産性を維持できるという結論に至る実験結果が出ているそうだ。

 

ふーーむ。

おとぎ話を聞いているようで、今ひとつイメージしづらいが。とりあえず今日もGIVEしていこう!

 

毎日5分間の親切を!

 

①学年の先生にお茶を入れる。

②学年だなを掃除する。

③クラスの子どもに、自分たちで授業する楽しさを実感させる。

自分のGIVEの定義

ふたせんさんの学びの会。

効果抜群ですね。

 

頭の中はこの会のことばかり…

 学ぶことにワクワクした1日 - 小学校教師ふたせんの朝3時からの共育現場〜育つ育てる育てられる〜

 

自分の学びの浅さを思い知る。

参加者の方にとっても何か得るものがあるものにしたいのだが…

果たして今の自分がDAFLの方にGIVEできるものってあるのだろうか…

 

昨日、Nさんとの電話で、

「相手が喜ぶことをなんでも与えていいのか」という問いが生まれた。

 

「近視的にみると喜んでもらえることでも、長期的にみると、相手のためにならないこともある」と。

確かに、例えば相手が喜ぶから宿題を出さない。というのは、GIVEとは言えない。

 

・・・が。

 

そもそも、自分の中でのGIVEの定義とはなんだ?

 

◯基本姿勢
授業の中で、校務分掌の仕事、学年の仕事の中で与えられるものがないか、考える。
そのとき与えられるものがあれば、与える。

◯何を与えるのか
自分だったら喜ぶこと
相手が喜んでくれそうなこと

 

 

つまり、

自分が他者に与えようと考えるとき、どんなことなら与えてOKだと思うのか、そして、それはなぜそう思うのか。

ここをもっと深ぼらなければ見えてこない。

 

自分だったら喜ぶことなら与えてOKと思うのは、相手と共感できるところを探す目的もあるのではないか、と思った。

 

また、「相手が喜びそうなことを与える」というと、文字にするといかにも他者に迎合することに繋がりそうだ。

しかし、そこは自己犠牲ではなく、他者志向性によるものだという自負があるので、問題はないか。

テイカーは仕事に向いていない

そもそも、仕事は他者のためになって成立するものだから。

 

そして、

テイカーの頭の中は自分の評価でいつもいっぱいになっている。

 

…図星すぎる。

 

さらに、クリエイティブな建築家を調査すると、皆一様に要求が多く、攻撃的で自己中心的であった。また、クリエイティブな科学者の方が、クリエイティブでない科学者より優越感、敵意、精神の異常さでスコアが高かった。

 

自分の意見に絶対的な自信をもっているため、普通の人なら押さえ込まれてしまう「社会的な承認」に縛られることがないからだと、結論づけている。

 

 

…なるほど。

面白い!

 

 

この本で、ギバーのリスク、すなわち、テイカーに持っていかれてばかりで消耗することは、ないのか、そもそも、消耗と捉えるべきでないのか、あるいはそれをどう乗り越えるのかが知れたらいいと思う。

成功するギバーは、自己犠牲ではなく、他者志向性をもつ

 

GIVE & TAKE 「与える人」こそ成功する時代 (単行本)

GIVE & TAKE 「与える人」こそ成功する時代 (単行本)

 

 

朝からこの本を読む。

 

タイトルは最近悶々としていた、GIVEするときの自己犠牲の感覚は、自分の目指す自由な人生と程遠いということ。

 

それに対する答えになりそうな一節があった。

 

他者志向性とは、みんなの幸せのために高い成果を出す。そこに目的を設定すること。

 

らしい。

 

これって最近自分がしていることだな、と思ったが、同時に自己犠牲の気持ちがむくむく湧き上がるのは、なぜかというと

そうした時は、やはり

自分にとって意義のあることをしていない

自分が楽しめることをしていない

ことに原因があるようだ。

 

自分にもGIVEするという視点が必要だ。

 

うーむ…まあ、自分が思っていたことが言語化されて多少スッキリしたけどね。

まあ、これからさらに深い洞察が辞めることを期待しよう!

 

 

 

さて、今日は何をGIVEしよう。

 

①算数の時間、既存の学習を生かした、式の立て方をGIVEしたい。

②新たな宿題提出方法を提唱した子が行動を起こして良かったと思えるように、声かけをしたい。

③市の球技大会の保護者向けの手紙のデータをあげたい。

 

GIVE&TAKE

ふたせんさん主催の会DAFL。

 

この会で出会ったNさんと、電話しました。

自分の学びの軌跡を辛抱強く聞いてくださり、感謝しかない。

やはり伴走者がいると学びのモチベーションが格段に違う。もっと行動しなきゃ!といてもたってもいられなくなる。

 

GIVEの定義は?

学びに深まりはあるのか?

 

…。

 

 

あと、何かに取り組むとき、どういう視点で取り組んでいるか。

 

迷ってしまった。

 

最近、GIVEGIVEいってるので、新たな知見を広めようと、購入!

 

 

GIVE & TAKE 「与える人」こそ成功する時代 (単行本)

GIVE & TAKE 「与える人」こそ成功する時代 (単行本)

 

 

 

まだまだ、インプットが足りず、浅い。

参加者さんに申し訳ない。

 

今読み始めたが、面白そう。

 

世の中はGIVE&TAKEで成り立っている。

 

ギバー(与える人)

テイカー(受け取る人)

マッチャー(バランスを取る人)

 

勘違いしてはならないのは、ギバーもテイカーも与えるだけ、受け取るだけではない。

 

この三者はGIVE&TAKEにいたるまでの道筋が違う。

 

ギバーは見返りを求めない。

テイカーは受け取る目的を達成するために与える。

マッチャーは、人間関係の損得は五分五分であるべきと考える。

自分を俯瞰しながら、行動していく

PDCA

 

計画

実行

評価

改善

 

 

こんな風に一つ一つのプロセスを丁寧にこなしていくと、変化に対応できない。

だから、ひたすらDADADA。

実行、改善を3回やってみて、見込みがなさそうなら、撤退する。

 

こんなことを、藤原和博さんが

この本で述べている。(あってるよな・・・)

 

 

35歳の教科書―今から始める戦略的人生計画

35歳の教科書―今から始める戦略的人生計画

 

 

これを読んだとき、確かに!

と、思ったが、よく考えると

「とりあえず行動し、とりあえず改善しそうなことを変えて行動する。」

こんな風に、改善しそうなことをその場の状況に応じて見出し、行動していくって、我々教師は常に、子どもと相対するときにやっている気がする。

 

子どもの反応を見ながら話を進めるし、授業を進めるし、児童指導する。

 

重点研究で指導案をガッチガチに固めてきた授業が微妙な感じで終わることがある。

こうした現象は、教師側の意識が「子どもをなんとか指導案の流れに誘導したい」と思うことから起こるのではないか。

そして、そういう教師は予測不能な子どもの反応に対応しきれず、流すか、潰すかして、まるでブルドーザーのように授業が押し進められる。

 

そりゃあ、微妙な感じで終わるわ。

 

授業のねらいは明確にする必要があるが、それ以上に「子どもと対話しながら授業を進めていく意識」をもたないと、ねらいを達成するための仮説を検証できない。

もっといえば、無理やりこちらのレールに乗せることぼかり考えていると、そもそも仮説(ねらい達成のための授業構成)を検証しようとする思考が抜け落ちる。

 

授業の際、指導案通りにやることを考えている状態は視野が狭くなっている状態だ。

視野を広く、自分を含めたクラス全体を俯瞰して、授業を進めていくとき、まさしくDADADAを繰り返している。

子どもの反応を見ながらその場で、投げかけを変えたり、アプローチを変えたり、授業の構成を組み立て直したり…

授業を進めている際、子どもの反応によってじっくり計画し、実行した結果得られた子どもの反応をチェックして、評価を吟味している暇はない。

 

結局、常日頃から自分を俯瞰して見る癖をつけるしかないのではないか。

何ができるか考え(P)、行動した結果をその場で評価する(C)精度を上げていくために。

疲れた…でもGIVEしたことを思い出すと気持ちが晴れる

いや、ほんとに。

 

今日は体力テストのライン引きでGIVEできた。

 

…が、繰り返しになるが、自分の時間を切り売りすると、TAKEの意識が強くなる。

 

あと、今日は、改めて作文指導が楽しいと思えた。

20分で時間を区切って、途中でもグループで見合い。アドバイスをもらい、もう一度書き出す。

子どもたちの集中力に驚いた。

もっともっと彼らに書かせたいな。

ライティングワークショップなんて、やらせてみたい。作家ノートなんて、作っちゃったりして。

s_locarnoさん教えてください😝

 

 あとは、

 

今日は何がGIVEできるか。GIVEしたいか。

決定づける出来事があった。

 

 

みんなが豊かな生活を送れるように支援していきたい。そこに向かってGIVEしていく。

 

 明日は、プール開き集会。

私のクラスの子が目標を発表する。

 

まずは、発表した子に達成感を味合わせたい。

がっつり1時間目を使い、みんなの感想と、発表した子の感想を伝え合い、人前で話をすることの価値が感じられるようにする。

 

後は、学級通信。

最近、自主的に調べ学習をする子が増えてきた。

それを取り上げてみんなに知らせる。

石川晋先生のおっしゃっていた、読者を意識して、学級通信を出し、配布したら、即、その場で音読しようと思う。

「あ、自分かも!」と思った子は嬉しいかな?

 

そもそも、褒められて嬉しいと思って貰える先生でいることができているのだろうか。

 

考えてみれば、子どもにGIVEすることが「褒めること」っていう発想危ないですね。

「お前がなんぼのもんじゃい。」と、常に突っ込まないと。

 

あとは、総合!

子ども一人一人の活動の軌跡が見られるようにしたいなあ。そんなことを子どもに提案してみよう。