小学校の先生を120%楽しむ毎日

超人見知り。内向型人間です。でも先生やってます。セミナー開催もしています。

幻冬舎社長 見城徹さん

最近755で、見城徹さんのトークルームをのぞいています。

 

755って、グループラインを公にしている感じです。

自分のトークルームでは、ツイッターよりもガッツリつぶやけるし、ガッツリ絡まれる。そんな感じ。

 

ホリエモントークルームとか。

ググレカス」とか「いいね」とか、返信が超あっさりしてますが、見城さんのトークルームはガチです。

 

めちゃくちゃ熱い

 

例えばこんな。

 

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そもそも、幻冬舎って、そんなに新しい会社だったんだ。と驚きました。

 

あとは、こんなやりとりも

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こんなに赤裸々に語るんだなあ。

 

 

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秋元康さんも参戦。

 

 

 

 

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 こんなやりとりも。

 

正解な言葉を考えて、考えて、考え抜けば自己検証がクリアになり、言葉と実践が一体化し、モノゴトは自分のイメージに向かって動き始めます。

 

DAFLでやっていることってこういうことなんだろうな。

今、この言葉を実感しています。

二川さんありがとう。

 

 

あと、私が一番奮い立たされたのはこの言葉です。

 

何故、憂鬱になるのか?
それは他の誰にも出来ない「達成」を自分に課すからです。
「絶対に逃げない」
そう決めるからです。
他の誰かができるようなことをしていても大きな結果は出ません。
「憂鬱」にならなければ駄目なのです。
だから、「憂鬱」こそ黄金の果実の素なのです。
憂鬱でなければ、仕事じゃない。
憂鬱こそ我が友。
だから、昨日までの自分を振り切って、もう一段ギア・チェンジ。
オーバー・ザ・トップ

 

いろいろな本に影響され、

「これからの時代は楽しくない仕事は仕事じゃない」

そんなことを考えてしまっていましたが、違いますよね。

これからは、「誰もができる仕事」は、なくなっていくでしょう。

 

働ける人は「その人だけができる」なにかを持っている人だけになるはず。

 

先生という仕事なんて、まさにそう。

その先生にしか出来ないことを持っていないと、先生でいる意味がない。

近所の兄ちゃん姉ちゃん。おじさん、おばさんと変わらないのなら、我々教師に価値はない。

 

教師という仕事に一生懸命に取り組むということは、日々チャレンジの連続、不安やリスクと常に隣り合わせで、憂鬱になるのが当たり前。

 

 

「他の誰にも出来ない達成を自分に課す」

こんなことを考えてもいなかった。

クラスの誰かが、ボンベイ先生でよかった。って言ってくれればいいや。ぐらいに考えてました。

 

きっと、どんな業界でも、突き抜ける人って、無意識にきっと他の誰にもできないことをやろうと常に勝負しているんだろうなあ。

 

そんなことを考えさせられました。

 

自分にとって「社長」という人は遠い存在です。毎日おいしいものを食べて、思い通りの人生を過ごしているものと思っていました。

でも、やっぱりどんな人も日々いろいろ悩んで精一杯生きているんだなあ。としみじみ思えます。

 

「みんないろいろな事情を抱え、それぞれのストーリーの中で最善を尽くして生きている。」

そんなことをこうしたSNSを通して知ることができると、周りの人たちに少し優しくなれますし、頑張ろうという気がします。

 

私がやっているブログもそうありたいものです。

日々一生懸命やっているところをもっと発信しなくては。

職場のおしゃべりは無駄?

私は、以前職場でヘラヘラ冗談を言ったり、おしゃべりをしている人たちを見ると、

 

「仕事中に何ふざけてんだ。おしゃべりなんて無駄。その時間を使って子どもたちのために何かすべきだろう。」

 

とまあ、ストイックぶってそんなことを思っていましたが、心の奥底には

「自分はこんなに頑張ってやっても仕事が追いつかないのに・・・いいなあ」

という気持ちもあったのです。

 

おしゃべりする余裕がなかったんですねえ。楽しそうにおしゃべりできる先生方が羨ましかったんでしょうね。

 

もちろん、今も余裕は全然ありませんが、次のように割り切って仕事をするようにしました。

 

家に持ち帰れない仕事は土日にやる。

教材研究は家に帰ってやる。

 

そうすると、下記のようなおしゃべりをする余裕が生まれます。

 

 

「昨日は、1日学校を空けてしまって、すいません。私という支柱を失った◯◯小は、大丈夫でしたか?」

 

「うん、すごい落ち着いてた。学校全体も。職員室も」

 

「そうですか、今日学校を見回ったら、やはりどことなく、色々なものがくすんでいるように見えたんですよね。あと、自分のクラスの子どもたちも、職員室のみなさんも、どことなく、覇気がない。私という一職員が1日学校にいないだけで、ここまで影響が出てしまうのは、やはり組織としてどうなんですかね・・・」

 

「うん、それね。完全に勘違いだし、昨日の打ち合わせの議題は、ボンベイさんをどうするか、だったよ。」

 

「私という完璧な教師が、職員のみなさんにもプレッシャーを与えていたということですね。それについては、反省しています。知らない間に、みなさんを追い詰めていたんですね。

でも、私とご自身を比較するのではなく、職員お一人お一人の良さを引き出していくことが、◯◯小の課題だと思っています」

 

「違う、ボンベイさんが、◯◯小の課題なの。」

 

「あれ。おかしいな。なんでそういう話になっちゃったんですかね。

さあ、帰ろう。今日も激務だったな〜」

 

 

こんな感じです。

 

まあ、あの・・・

疑いようもなく、実のない会話ですね。混じりっけなしの純粋な無駄な会話!

自分で書いてても、しょうもなさすぎて

心底「あれ、俺今何やってるんだろう」

という気持ちになって、途中で投げ出しそうになりました。

 

でも、こういう意味のない会話にも、この本によると

 

チーム・ファシリテーション 最強の組織をつくる12のステップ

チーム・ファシリテーション 最強の組織をつくる12のステップ

 

 

実は下記のような機能があるそうです。

 

【1】会話

会話とは交流のための話し合いです 。その目的は 、情報や気持ちを交換しながら 、知識や経験を共有し 、関係性を深めることです 。やり方は 、普段やっているおしゃべり (井戸端会議 )がまさにそうです 。自分の知っていること 、思っていることを自由に話しながら 、

互いに 「そうだよね 」と受け止め合っていきます 。

論点や道筋を気にせず 、対立や葛藤をできるだけ避けながら 、連想ゲ ームのように話をつないでいきます 。そうやって 、

いかに同質であるかを確認し 、連帯感を高めていくわけです 。

それで何かの結論が得られるわけではありません 。 Aという意見と Bという意見があったとしたら 、それぞれは会話をやっても変わることはありません 。 「なるほど 、そう思うんだ 」と 2つの意見があることを知るのが会話だからです 。

 

 

太字のところにつきます。

先ほどの会話の場合、自分のバカな話に乗っかってくれるかどうかで、自分と同じノリ→同質であると確認して、連帯感を高めているのです。

 

しかし、こればかりではダメですね。

「そうだよね」の連発は価値観が固定化され、

私はもっと対話をしたいです。

 

 

【2】対話 (ダイアロ ーグ )

  それに対して対話は 、探求と発見のための話し合いです 。 Aという意見と Bという意見に対して 、その上をいく新しい Cという意見をみんなで探し出すのが対話です 。

  たとえば皆さんがチ ームの行動目標について話し合っていたとしましょう 。誰かが 「プロを目指す 」と発言したところ 、別の人から 「プロって何 ? 」と突っ込みが入りました 。それを契機に 、いろんな考え方や視点が飛び出し 、プロの 「意味 」を深く掘り下げる話し合いとなりました 。これがまさに対話で 、このような哲学的なテ ーマが一番フィットします 。

 対話の成果は 「意味の発見 」です 。

見解が違っても無理に合意形成をする必要はありません (結論がまとまらないテ ーマの方が面白いです ) 。それよりも 、みんなが 「なるほど ! 」と思える新しい考えを出すことを競っていきます 。人それぞれが発見したものが違っていても 、探求という共同思考のプロセスを共有することが大きな収穫となります 。

 

 

そして、議論も…

 

 

 

【3】議論 (ディスカッション )

交渉のように 、異なる意見をぶつけ合い 、最良の意見を選び取る (またはつくり出す )のが議論です 。合意形成や問題解決を目的とした話し合いであり 、一般的には 、会議というと議論の場を意味します 。互いに自説の正しさを根拠とともに主張して 、相手を説得していきます 。それを 、論点を整理しながら 、様々な角度から検討し 、全員が一致できる合理的な基準に基づいて 、最も妥当性の高い結論を見つけ出します 。それで折り合いがつかなければ 、説得と譲歩を繰り返しながら 、いわゆる妥協案を模索することになります 。 Aという意見と Bという意見があれば 、どちらか優れた方を採用するか 、 A + Bにするのが議論なのです 。

 

 

日常的に、会話をすることで、対話や議論の質もあげられるのではないかなあ。とぼんやりと思っています。

 

 

まあ、そんな小難しい理屈をつけなくても、単純に元気が出ますよ。

なぜか、すごく前向きな気持ちになれます。

 

放課後の職員のみなさんとのおしゃべりも早くまたしたくなる。

そして、明日の授業のことを考えてみても、なんだかいける気がしてくるんです。

明日学校に行くのが楽しみになります。

 

会話によって笑い合うことで、所属している安心感を得られるからですかねえ。

 

職場の仲間と会話して笑い合う時間は、自分がいろんなことを抱え込んでいる時ほど意図的に取ろうとした方がいいのかもしれません。

いっぱいいっぱいの時って、私の場合、後ろ向きなことばかり考えてしまいますから。

 

前向きになりたい時は、バカな話で笑いあうことが一つの手段になり得るかも。

 

バカな会話。

なかなか侮れなませんよ。

モチベーションの源

昨日は体育部主催の一大イベント、私の自治体の学校の半分が一斉に集まる体育大会。

 

そこで、お世話になった方とたくさんお会いして、お話することができました。

 

 

その中でも

私が一番お世話になった先生が「田舎暮らしをしたい」とおっしゃってました。

 

その先生は、初任の頃から

「一切教科書と同じように、授業しない」

と決めて、自分なりに教材を工夫していたような人です。

 

また、体育部の一部員として当時の体育の大家の先生にガンガン実践提案をするようなエネルギッシュな方です。

 

そうした逸話をたくさん聞いたり、学級経営のことや、子どもとの関わりについて、いろいろなお話を聞いたりして、大きな影響を受けた先生です。

 

だから、

「田舎暮らしをしたい」という言葉に

少なからずショックを受けました。

 

「今の学校で成し遂げたいことはありますか?」

とお聞きしました。

 

「いや、もういいです」と笑って答えました。

 

その先生は今では校長先生です。

 

このやりとりから、この先生の心中をいろいろと考えられると思います。

 

校長としてのポジションに疲れているのか。

もう十分やり尽くしたと感じているのか。

やりたいことはあるけど、諦めているのか。

単純に田舎暮らしに魅力を感じているだけなのか。

 

 

ただ一つ確かなのは、担任時代、意欲的に楽しんで働いていた方が、「田舎暮らしをしたい」と考えていることです。

 

私は今この仕事を楽しんでいますが、多分、若い頃のその先生ほどは、まだ楽しめていないと思います。

 

そんな自分がこの先もモチベーションを持ち続け、教師としてやっていけるのか、不安になりました。

 

自分のモチベーションの源がどこにあるのか、それをよく見極めていきたいと思いました。

君たちはどう生きるか

今さらですが読みました。

 

と言っても最近出た漫画版ですが…

 

 

漫画 君たちはどう生きるか

漫画 君たちはどう生きるか

 

 

中学生時代に読んでいたら、また違った人生になっていたかもしれない。そう感じるほどのものでした。

 

 

 題名の通り、生き方を問われ、考えさせられる作品です。

一貫して

 

他者に貢献することなくして、豊かな人生は歩めない。

 

そんなメッセージが込められているように感じました。

 

銀座のデパートの屋上から、地上の人々を眺め、

「自分は広い広い世界の中の一分子」

だと感じた主人公。

 

主人公の叔父は、その発見を

「天動説から地動説に変わったようなもの」

と、主人公の気づきが、深い意味を持っていることを次のように語ります。(ノートに書かれた手記の中で)

 

人々は長い間ずっと天動説を信じており、地動説が発表されてから、何百年もたってようやく信奉されるようになったことを例に出し、

「人間が自分を中心としてものを見たり、考えたりしたがる性質というものは、根深く、頑固なもの」

 

子どもはもちろん、大人でも、損得が絡むと自分を離れて正しく判断することが難しい。

 

しかし、地球が宇宙の中心という考えにかじりついている間、宇宙の本当のことがわからなかったことと同じように、自分ばかりを中心にして物事を判断していくと、世の中の本当のことも理解できなくなってしまう。

 

だから、君の発見は大きなことなんだ、と。

 

 

どうです?

 

これは、まだまだ冒頭なのですが、この主人公の「叔父さん」のノートの文章が暖かく、優しく、知的で本当に素敵なんです。

こんな風に学級通信が書けたらなあ。と妄想してしまいました。

 

読んでいると

 

ハッとすること。

心がポカポカすること。
心に刺さること。
じわっと胸が熱くなること。

 

 本当にたくさんありました。

字数はそれほど多くないのですが、すごく濃ゆい。

 

例えば

 

「人間として、この世に生きていることがどれだけ意味のあることなのか」

それは人間らしく生きてみて、その間にしっくりと胸に感じなければならないもので、誰かから聞いて教わるものではない。

 

自分が本当に感じたことや、真実心を動かされたことから出発して、その意味を考えてゆくことが肝心である。

自分の体験から出発して、正直に考えてゆけ。

 

そうしないと、本当の自分、ありのままの自分がどんなものかということをつい、お留守にしてしまうから。

 

 

人間の結びつきについて

生産関係として、人間のつながりが拡大することで、人間らしい人間関係を構築することが難しくなった。

人間同士、お互いに好意をつくし、それを喜びとしていることほど美しいことは、ほかにありはしない。

 

 

などなど。

 

 

全然魅力をお伝えしきれておりませんが、書いているうちに、本文を全部引用したくなってしまうので、ここらへんでやめておきます。

 

 

すぐに読めます!未読の方は、是非一度読んでみてください!

権限があっても信頼がなければ、人は動かない

昨日から、体調を崩し今日は早退し、ずっと寝ていました。

一眠りして、びっくりするくらい体調が回復していたので、なんだったの?という感じ。

目が覚めて、いつものような空腹感を感じた時の嬉しさはなんとも言えません。

 

 

大変遅くなりましたが・・・

またまた、前回の記事に

 http://kengobonbei.hatenablog.com/entry/2017/11/05/211757

熱いコメントをいただきました。

高杉竜馬さん、ありがとうございます。

 

 

公立学校において、教師が死守すべきものは、

①児童の安心・安全の保障
(人権の保障)
②人としてのマナー
(挨拶・返事・後始末)
③基礎学力の保障
(当該学年の学習内容、特に国語・算数)

でしょうか。

※国・算なのは累積赤字がたまるほど、返済が厳しくなるのと、そもそも毎日ある教科だから「わからない」が続くと自己肯定感が下がる。これは高学年の担任・児童ほど損害を被る。だとしても、将来の児童の選択肢を狭めないためにも「あきらめない」ことは大切だと思っています。

①~③をおさえるということを前提とした場合、各教師が「裁量範囲」が少ないと考えるか多いと考えるか。

私は十分すぎるくらいの裁量を与えらていると思っています。

なぜなら、基本的に①~③にせまるための手段に関しては「法的拘束」はないからです。(将来的にはここも拘束してきそう)
それに、①~③+αで教師なりの、そして子どもたちなりの④、⑤・・・を追い求めていくことも可能なわけです。

文句を面とむかって言われてしまう行動は教師の共通点として、おそらくこの①~③のどれかが足りてないと思われている、心配されている、または悔しいから重箱の隅をつつきにいかれているといった自分なりの仮説があります。

例えば、挨拶もろくにできない子どもたちなのに放し飼いしているだの、補教に入った時さんざんな学力・生活態度だったのになんか違うことしてるだの私は、そんなことを言われ続けた教師でした。その時は納得いってなかったです。
「俺を管理しようとしやがって」とか「出る杭を打とうとする旧世代め」とか思ってました。

ですが、たしかに生活態度はよいとは言えず、納得しないのはそうかもな~と真剣に思う機会がありました。
それは尊敬できる先輩教師との出会いでしょうか。その先生から指導や助言をされたことはないが、はたから見てて、「私が言われ続けたのはそういうことだったのか」とはっとしました。

国民全員からの納得は無理、というのは私も同意見ですね。
ただ、同じ船に乗るメンバー(学級の児童・保護者)の「納得」は必要かと思われます。

好きになってもらうではなく「納得」です。
さらにその納得を積み重ねて「信頼」までいけたらベストだと思っています。

なぜなら、これがないと学級内において「メンバーシップ」が機能しないからです。
「学級」の強味、というより「組織」の強みはいつもこの「メンバーシップ」だと考えます。

いつも、激熱な記事ありがとうございます。そしていつも自分自身が考えたり、頭を整理するきっかけになっています。一緒の職場で働いてみたいといつも思ってます!

私の考えにもつっこみを入れていただけると嬉しいです!

 

 

概ね同意見です!

 

 

全体的に前々回の記事を引きずってらっしゃるような印象を受けました。

(勘違いならすみません。)

 

前回の記事で私が述べたかったことは、

「もっと好きにさせろ!俺の学級での取り組みを認めろ!」

ということではないのです。

 

端的に言うと、

「校務分掌のそれぞれの担当者が全面的に任されている職員室の風土の方が、みんな生き生きと働いて、結果も出せるのではないか?」

 

ということを言いたかったのです。

 

「あまりにもお伺いすることが多いから、提案者に多大なコストがかかりすぎる。」と感じています。

そのため、大胆な変革が行われず、前年度の重箱の隅をつついたような反省をもとに

「例年通り」を微修正しておしまい。

つまり、担当者の権限があまりにも弱いため、全員を納得させる必要も生まれる。だから、根回し、企画会、長い長い職員会議などなど、多大なコストがかかる。

それこそが学校が変わらない原因なのではないか、と思っていたのです。

 

だからこそ、次の一節に考えさせられました。

 

ただ、同じ船に乗るメンバー(学級の児童・保護者)の「納得」は必要かと思われます。
好きになってもらうではなく「納得」です。
さらにその納得を積み重ねて「信頼」までいけたらベストだと思っています。

  
互いの納得解を見いだす経験を積み重ねることで、お互いに信頼が出来上がっていく。

たしかにそれが自然な流れだよなあ。と

 

どんなに担当者の権限が強くなっても、人は感情で動くもの。やはり、合意形成のプロセスは削ることができない。

とにかく、信頼を勝ち得ることが大事なのかなあ、と思いました。

「強い組織/企業文化の作り方」記事からの学び

株式会社アカツキ 代表取締役CEO 塩田 元規 氏、

株式会社メルカリ 取締役 小泉 文明 氏、

株式会社リンクアンドモチベーション 執行役員麻野 耕司 氏

の3名をが語る

 

「強い組織/企業文化の作り方」

 

のまとめ記事。

「性善説でルールを創る」メルカリ小泉氏が語るプロフェッショナル型の組織づくり【K16-3E #2】 – 【ICC】INDUSTRY CO-CREATION

 

なるほどー、と思うところ。共感するところが多々あります。

とても面白いです。

 

小泉 

やはり、組織に対して潔癖すぎるというのは良くないと思っています。

新規事業にも近しいことは言えるかもしれませんが、他の企業などを見ていると「そこまで完璧にやろうとしなくていいのに」と思うことはあります。

あとは、みんなが意見を言いすぎる。

もう少し放っておいてあげればいいのに、と思います。

 

同感。

子どもに委ねるなら、多少の失敗には目をつぶって、本気で委ねてあげたいです。

 

塩田    

先輩経営者の方に言われてすごく納得したのは

 

人材育成は10人中10人上手くやろうとすると結果は大失敗するというのです。


10人中、4、5人上手くいけば良いと思ってやると、結果7人くらいは成功するということでした。

 

この感覚。教師も持っておいた方が、変に力まず、気が散らず。ブレずに指導できるはず。

「人間同士なんだから、教師と子どもも合う・合わないはある」

そういう前提で、関わっていかないとお互いにとって苦しい関係になっていきますねえ。

 

40人いたら40人としっかり向き合うし、全員の成長を願うけど…

40人全員に好かれようとしない。

 

 

麻野

僕は経営で言うとダーウィニアン・アプローチといいますか、いろいろなことをやって、残ったものが良いものだという進化論的な考え方なのです。

でも、たぶん楽天の三木谷さんなどは違う感じで、月へ行くと決めてひたすら一直線にそのことをやります、ついて来い、という感じだと書籍などから読み取れます。

 

うわー。これなんかもすごく重なりませんか?

 

指導力にものを言わせて、子どもをグイグイ牽引してクラスを成長させていくタイプの先生。

 

子どもの思いを引き出し、様々なアクションを主体的に起こせる環境を整え、トライアンドエラーをしながらクラスを成長させていくタイプの先生。

 

私はまだまだ前者かな。

早く後者に移行したいんですけどねえ。

 

 

これらは、最後は好き嫌いの世界かな、という気がします。

 

うーむ…これは、教員の世界では、クラスのフェーズによるのかなあ。と。

1年という限られた時間の中で、クラスを成長させるには、最初から子どもの主体的なアクションを期待しても無理があります。

まずは、ガンガン指導を入れて、安心安全な場づくりに努め、それから徐々に子どもたちに委ね、トライアンドエラーを許容していく。

 

企業では、この失敗を許容できるかどうかは、財務的なところによるところが大きいのでしょう。

しかし、クラスの場合、失敗を許容できるかどうかは、教師の在り方次第。

 

事業についてある程度レールが決まっているのであれば、人材も型にはめていった方が効率が良いという側面もあるかもしれません。

しかし、もう一方のタイプだと、

多様な道筋があって、思いもかけないような成長が中から生まれるということがある。

 

きっと、これなんでしょうね。一人一人が主体性を発揮した時に得られるもの。

クラスにおいては、教師なんかが考えつきもしないことを子どもが思いついたり、予想を裏切るくらい成長したり…。

 

では、職員室におきかえたら?

 

そもそも、教育という「事業」にレールは決まっているのでしょうか?

 

公立の学校においては、やはり「ある程度決まっている」ということになるのですかねえ。

 

でも、そのレールって、地面に石灰で引かれたラインのようなもので、実体がないような気もします。

 

また、教育というものの性質上、そのレールの先の目的地も、方角はだいたい分かっているけど、ピンポイントにどの地点なのかよく分からない。

 

だとするなら、せっかく終点に向かうためのラインを引いてくれているんだから、大きく外れることは非効率だし、方角がわからなくなりそう。でも、せっかくどこでも走れるんだから、蛇行しながら目的地に向かってみてもいいんじゃない?

 

というのが、私の考えです。

 

こんなことを言うと

 

子どもが乗ってること忘れるな!

 

というお叱りが聞こえてくるようです。

 

しかし。

そもそも、教育には、大前提として、絶対的な正解はないし、国民全ての納得解もあり得ない。

 

アカツキやメルカリのような会社だと、社内から偶発的に新規事業が生まれてくる可能性がある。

 

校務分掌でも、それぞれの担当者に権限を与え、委ねることで一人一人の教師が主体性を発揮して色々な試みにチャレンジしていけるようにする。そうしていく中で、子どもにとって、もっと価値あることが見つかるかもしれない。

 

 

そういった会社の育成観と、レールを敷いて走らせていくような会社の育成観というのは違うのだと思います。

こちらにはやはり、

人間はコントロールできない。

他人はコントロールできない。

それぞれの自主性から生まれるものが良いものだ。

そして

良いものは社会が勝手に選び取ってくれる

というような根幹の思想があるような気がします。

 

この視点を学級経営や授業、校務分掌の仕事。人と関わるあらゆる場面で大事にしたい。

 

大事なのは、こちらの事業や組織にレールを敷くような育成を当てはめると失敗するし、レールを敷くような事業や組織にこちらの育成を当てはめると失敗するだろうということです。

だからこそ、一番初めの話に戻りますけれど、

ビジョンとかミッションとかバリューとか一本筋を通しておく

と、そのあたりも間違えないのかなという気はします。

 

うーむ・・・なるほど〜。

それぞれの学校が、本気でビジョン・ミッション・バリューを考えて、保護者、地域に理解してもらえれば、だいぶ変わってくるのでしょうかね。

 

企業の経営者の方も色々考えているんだなあ。

先生を「あいつ」呼ばわりする心理

わたしには分からない。

 

父親も中学校の教員なので、私は基本的に、学生時代から先生に対して好意的だった。

もっとも、「先生、先生」と教師に懐くタイプでもなく、模範的でもなく、思いっきり盛大に悪さをするわけでもなく、なんとも扱いづらい生徒だったとは思うが・・・

 

今日は、家の近所の居酒屋で夕食を済ませた。カウンターに座ると、みんな近くに住んでいる方。地元民。顔見知りではないが、それだけで親近感が湧いて、話し始めてしまう。

カウンターで一人で飲んでいる方は、人懐っこく、話しかけてくれる。

とても朗らかでいい方たちだ。

 

じわりじわり、探り探り自己開示しながら、学生時代の話しになった。そこで、先生に怒られた話が始まる。

「いやあ、僕野球部だったんですけど、先生にはめちゃくちゃ怒られてましたね。」

たまたま、私が一緒になったお二人は、出身の高校が同じで、高校の先生の話になった。

 

「〇〇知ってますか?」

「あいつ生意気だったよなあ」

「あと、〇〇」

「あーそいつ全然覚えてないわ。俺が覚えてるのは、〇〇と〇〇。ほんと殴られたよ」

 

 

みたいな感じ。お二人とも学生時代に戻っているようだった。

お二人の「先生に怒られたエピソード」を聞きながら、私は酒を飲んでいた。

 

そのとき、 

なぜかめちゃくちゃ苛立っていた

 

私は当然のことながら、その先生方のことは知らない。

 

でも、

 

教壇に立ったこともない奴が、教師を「あいつ」呼ばわりしてんじゃねえ!!

 

そんな激しい怒りにかられている自分に気がついて、自分でも驚いた。

 

なんなんだろう。

変な感情移入?その先生達との仲間意識?

 

私は学生時代から、教師というものに対して、「先生は不憫だなあ」と哀れんでいた。

話が下手だったり、説明が下手だったり、ダメな先生ならダメな先生ほど、不憫だと思った。

 

だって、子どもという圧倒的アウェイの中に一人で飛び込むんでしょ。きついだろうなーって、小学生時代から普通に感じていた。

 

 わ先生に生意気な態度をとる友達を見ると

先生相手にいきがってどうすんの?という感覚もだった。

 

それは、親が教師だったからとか、そんなことは関係なくて。想像力や共感力の問題だと思う。

 

早い話。

 

自分の武勇伝(悪かった自慢)とセットで語られる先生批判や、先生を軽視する発言が大嫌いだ。

 

武勇伝の裏に、必ず迷惑を被った人がいる。

 

にもかかわらず、そこの反省もなく、教師に怒られたことをヘラヘラ語る様は胸糞悪いことこの上ない。

 

繰り返すが、

私は教師に懐くタイプでも、担任に気に入られるタイプの子でもなかった。

 

それでも、今ここまで、こんな話題に苛立つのは、自分が教師として奮闘しているからだろうか。

もし、教師をしていなかったら、ここまで教師に肩入れしていなかったのかな。