小学校の先生を120%楽しむ毎日

超人見知り。内向型人間です。でも先生やってます。セミナー開催もしています。

放課後に、パワーをもらえる職場

ここ最近、ずーっとモヤモヤしていたことを放課後に学年の先生達に聞いてもらい、励ましてもらい、力をもらったというお話。

 

比較的、会話の多い職場だと思います。特に、私の学年はかなり話している方かも…

 

職場のおしゃべりは無駄? - 小学校の先生を120%楽しむ毎日

 

さて、私が何にモヤモヤしていたかというと…

子どもが本気になる授業は、授業の内容で決まるのか。先生との関係性で決まるのか。

 

ということ。

 

本校では、高学年は教科担任制を行なっております。

 

私は5年担任でありながら、6年生の算数を担当しています。

 

これがなかなか、やりづらい。

なぜ、やりづらいのか。
考えたところ…


「人の話を聞く。」


これが、徹底できていないからでした。

活動と活動の合間にいちいちざわざわする。
話していいですか?
静かになるまで待つ。
そして、ようやく話す。


こんな感じで、いつでも話したいときに、すぐに話ができないのは、ものすごくストレス。


自分のクラスでは、4月の最初に価値付けをして、「話を聞くこと」を最優先に指導し、徹底していきます。

 

今から厳しい態度で徹底していくのは、正直しんどい。子どもが離れるかもしれない。

 

そう考えて二の足を踏んでしまう。

 

そんなことを話しました。

 

すると、

「やっぱり、授業の内容に自信がないんだよ。ボンベイさんなら、子どもに伝えたいことがあれば、何としてでも話を聞かそうとすると思うよ。そこで躊躇うってことは、今ひとつ自分の授業の内容に納得がいってないんじゃない?」

 

おお!

もう、ほんとコレです。

 

正直、子どもたちとの関係性が出来ていないから、子どもたちも授業に本気になっていない。

そう思っていました。

もっと言えば、子どもが真剣にならざるを得ないように、厳しく指導して、授業にしっかり向き合わせてやろう。

そんな風に考えていました。

 

この発想。危険ですね。

 

自分の授業は、100%受ける価値があると思い込んでいるわけです。こりゃ成長しないわ。

 

常に、自分の授業の価値と向き合っていかないと、色々と理由をつけて授業改善していかなくなるのだろうな。

 

幸い教科担任制では、同じ授業範囲を3クラス分できます。

 

日々実験。

惹きつけ、ネガティヴから遠ざける

昨日はがっつり子どもと一緒にいた一日でした。

 

ここ最近、双子の姉がずっと体調が悪く、ぐずる事が多かったです。その反動か、昨日は妹がぐずりました。

 

私はなんとか、ぐずるのを食い止めるべく、抱っこしたり、アンパンマンのビデオをつけたり、色々と試しました。

 

泣き声に辟易しながら、なんとかツボにはまることを見つけていく作業をひたすら淡々と…

 

これ、なかなかきつい作業です。

いくつかのことを試しても泣きやまない時、ふと頭をよぎるのは、

 

「これは、今何をしても無駄なんじゃないか?むしろ、自分が逆撫でしているせいで、こんなにぐずっているのでは…」

 

ということ。

でもね。泣きながらでも、冷静に1つ1つその場に応じて試してみると、次第におさまってくるのです。

一番ダメなのは、泣きやまないことにテンパって、焦って、イラついて、

「何で泣いてんだよ」

と、ドライな気持ちで、嫌々その子に接すること。

 

そもそも、「何が嫌なんだよ」って…

そんなのきっと、本人にも分かりっこない。

大人だってそうでしょ。

なんとなく気持ちがざわついて、一日中ピリピリしている時ってありませんか?

そんなこといちいち、分析もしないし、まして3歳児にそれを求めるなんて、ハードル上げすぎですよね。

 

こちらが冷静になって、あの手この手で、関わってみる。

 

例えば、昨日は普段遊んでいるアンパンマンのぬいぐるみに紐を巻きつけて、紐を持って、「ヒューん。あ、アンパンマンがパトロールしてるよ!」なんてことをやりました。

 

すると、ぎゃあぎゃあ泣いていた子どもが、ふと我に返って、目を見開き、こちらに注目しました。

 

その瞬間が、なんとも言えず快感でした。

 

そうすれば、しめたもの。

あとは、アンパンマンにパフォーマンスさせて、惹きつけて、ネガティブな気持ちからどんどん遠ざからせるようにしていきました。

 

そこで、ふと感じたのは子どもをあやすのは授業と似ているなあ、ということ。

 

授業では、「導入で惹きつける」とよく言われますが、なんとなく違和感を感じていました。

 

私の場合、高学年を持つことが多いので、授業をしていて、惹きつける、というよりは、「子どもたちを日々考えてしまうネガティブな気持ち一旦から遠ざける」という感覚に近いのです。

 

この「ネガティブな気持ちから遠ざける」には、

 

日常×工夫

 

がとても大事な気がします。

 

先ほどの糸吊りのアンパンマンがいい例です。

 

普段遊ぶぬいぐるみ(日常)×ひもがつながり、振り子のように動く(非日常)

 

日常から乖離しすぎてもダメ。

でも、日常と同じでもダメ。

適度に非日常でないとついていけない。

 

その辺のバランス感覚が、多くの子どもたちを巻き込む授業をするには、必要なのかもしれません。

 

いや、大人もそうですよね。

定時で上がれるわけがないという、諦めが蔓延している職場で

 

「みなさん!とにかく毎日定時に帰りましょう!世の中はプレミアムフライデーなんて言ってるじゃないですか!」

 

なんて言ってもまるで響かないでしょう。

「思い」の共有はチーミングの第一歩?

来年度の運動会で、どんなこどもの姿を目指していくのか、夏休み明けすぐに、以下のように共有していました。

 

①けじめをつけようとする子ども

②主体性を発揮しようとする子ども

 

昨日の高学年ブロック会議では、高学年の目指す子どもの具体的な姿を共有しました。

 

①に関しては、どうせ開会式、閉会式で静かに話を聞く。とか、そんなことばかりだと思ったので、②の主体性の発揮を子どもにどこまで求めるかを共有しました。

 

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なんとなく、分類、整理して貼り付けました。

 

しかし、運動会で目指したい姿は本当に様々です。

 

高学年の係活動で、役割を理解し、自分から進んで活動していく。

応援を盛り上げようとしている姿。

進んで地域と関わろうとする姿。

学年演技を自分たちで創り、伝えようとしている姿。

開会式、閉会式にしっかりとした態度で参加している姿。(主体性か?)

 

などなど。まあ、主体的な姿ではなくて、自主的な姿どまりのものが多いのですが…

どれも大事そうに見えますよね。

 

全てに力を入れるのは不可能だと思っています。

例えば、子どもが地域の人と関わりたいと思えるようにするには、高学年になるまでに、どれだけ地域の方とよりよい関わり方をしてきたかに、かかってくるでしょう。

 

型がある程度決まっている運動会という場において、ありとあらゆる場面で子どもの主体性の発揮を求めていくのは、子どもも教師も厳しくなってくるでしょう。

 

5月下旬。

新年度が始まり、多忙な中で、子どもにも教師にも無理なく、価値ある学びがある

そんな運動会にしていきたい。

そのためには、大事にしていきたいことを徹底的に突き詰めて考え、それ以外のことはいかに削り、効率的にしていくかが大事なのだと思っています。

 

その後、特に大事にしていきたい子どもの姿について、一人3つ選び、☆や♡の印を付箋に書き込みました。

 

 これをやると見事にそぎ落とされたのが

 

「進んで地域と関わろうとする姿」

 

9人の先生は誰一人としてそこに、印をつけませんでした。

 

何を目指し、そのためにどこにコストをかけるのか。そうしたことが可視化されていくのが面白い。

 

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職員みんなの思いを共有し、何を大切にしていくのか。運動会をやる目的をとことん磨きぬくこと。

 

それが、チーミングには、やはり必要なのかな。

今後もこうした活動を地道に続けていきたいです。

チャレンジがきつくなる理由

私のクラスの学級目標は

 

宇宙へ飛ばせ

協力・信頼の5ー3ロケット

 

です。

 

 

子どもたちと共有しているイメージは

 

「宇宙という、未知の場所へも

協力して、信頼し合える5-3のみんなで

挑んでいく。」

 

…なんですが。

 

 

最近、子どもたちの活動が停滞しています。

例えば、総合的な学習の時間で立ち上がっている数々のプロジェクト。

 

野菜づくり

自分の学校の給食の残量調べ

小麦畑づくり

 

などなど。全て凍結。休み時間も使って、活動に熱中している子がいない。

子どもたちが意気揚々と立ち上げたプロジェクトを完遂しようとせず、尻すぼみになっていくのは、見ていてなんとも切ない気持ちになります。

 

やる気を持続する。

そのためには、日々やる気が出るものに触れること。モチベーショントリガーを引くこと。

 

その一助になれば、と。

昨日、朝のモジュールの時間に

 

◯今日チャレンジしたいこと

◯チャレンジするとどんないいことがあるのか

 

を書かせました。

 

本当は帰りの会で、チャレンジしてみてどうだったのか、振り返りたかったのですが…

 

時間がなくてそれもできず。今日子どもたちに聞いてみるのが楽しみです。

 

 

さて、自分も子どもたちと一緒に毎日チャレンジしたいことと、チャレンジするとどんないいことがあるのか。

記録していこう。

そう思い、先程取り組んでみました。

 

 

しかし、これ。

やってみるとなかなか暗澹たる気分になりますね。

 

チャレンジするって、普段していないことをやってみることだと思っています。

 

ただね、普段していないことには訳があるんですよね。

 

苦手なことだったり。

前に嫌な目にあったことだったり。

そして、何より。

 

普段自分がしないことは、自分が価値を感じていないんですよね。

 

例えば、私の場合、チャレンジしたいことで、真っ先に浮かんだのが

「授業の中で雑談、余談を挟むこと」

 

リラックスした雰囲気の中、楽しげに子どもたちに余談を話す。密かに憧れていることです。

でも、自分には合わない。

ていうかできない。

余談を話すことを意識しすぎて緊張してガチガチになってしまう。そんなだから、話す内容も上滑りして、まあつまらなくなる。

 

勇気を振り絞って話した結果、子どもたちが顔を引きつらせながらも、気を遣って笑ってくれるあの感じ・・・

思い出しただけで、

「あ“ーーーーーーーーー!!!!」って叫びたくなります。

 

そもそも、授業の最中に横道にそれる話をしたくない。自分自身の集中が途切れてしまうんです。

そこでの子どもとのやりとりも、別に楽しいと思えない。この話に食いつく前に、授業の中身にもっと食いついてくれよ。

と思ってしまう。

 

つまり、私が雑談、余談を挟まないのは、自分の強み、弱みを意識した上で、一人一人の子どもが熱中し、没頭している授業を目指しているから(まだまだ程遠いけど)なんですよね。

 

チャレンジすることを目的にすると、本来の自分が目指すこととはかけ離れていくことがある。

 

ということでしょうか。

 

チャレンジは、あくまで手段。

 

目的を達成するために、背伸びする必要があるときにチャレンジすればいいんですよね。

 

だから、まず。

目的を徹底的に考え抜き、その目的を果たすとどんないいことがあるのかイメージしないと、そもそもチャレンジする意味がない。

 

どんな学校生活にしたい?

この問いに対し、「平穏無事に1日が過ぎればそれでいい」そんな風に思っている子もいるかもしれないですよね。

 

私も中学校時代はそうでした。

 

そんな子にとっては、チャレンジなんて全く不可解。意味不明。

 

まずは、

バラ色の学校生活を夢見れるようにしていくこと

 

それが、チャレンジしたいと思う気持ちを育てる第一歩なのかもしれませんね。

 

チャレンジがきつくなるのは、チャレンジすることを目的に据えるから

 

それって、無目的に、一寸先も見えない暗闇の中でジャンプしようとするようなもの。

狂気じみてます。

 

結局、教師にできることって、チャレンジ「させる」のではなくて、ステキなビジョンを描けるように、一人一人の成功体験を地道にプロデュースしていくことしかないのかな。

先生になっても、先生に認められたい

前回のブログにまたまた嬉しいコメントが!

 環境を変えよう - 小学校の先生を120%楽しむ毎日

 

高杉さんありがとうございます。

 

教育の世界にも
「コンシューマーオリエンテッド
とさけばれはじめてますが、
いい面もあれば悪い面もありますね。

職員室になんとなく閉塞感だったり、自己不全感みたいなのが蔓延しているのは、まさにこの「コンシューマーオリエンテッド」によるものだと思っています。

変化①
保護者・子供が、安易に教員を比較する文化が根付いてきた。
「あの先生は当たりで、あの先生ははずれ」「あの先生の算数の授業はわかりにくいからいやだ」

変化②
学校(学級)評価なるものの台頭。
保護者・子供が教員の教科指導や生活指導に通知表をつけることができ、容赦なく辛口評価をする人も増えてきている。自由記述欄には教員の心を破壊しかねないような内容も書かれることもある。
さらにその結果が職員間、そして全校の保護者、地域に公表される。

まさに、
企業<消費者
という構図が、教育界にも押し寄せている。

今、ちょうどこの学校評価の時期で、職員室で結果を見て、沈んでいる先生が多い。

事実かもしれないし、努力が足りていないのかもしれない。教師としての品格も十分とはいえない。
しかし、人間はそこまで強い生き物ではない。
傷つき、その痛みから逃れるために、「あの先生のクラスより評価はまだマシ」と考える。

比較、他者評価にとらわれないことは絶対に必要だと私も思っています。
しかし、システムがそうさせなくなってきているのかもしれません。

銃をつきつけることによって、競争を引き起こすことによって、教員をちゃんとさせようとするのが今の教育行政ですね。

そんな激しい激流の中で、どうしたら気持ちよく泳いでいけるのか?
今、私はその泳ぎ方を模索しています。
このブログを読んでいるのもその一つの手段です!

 

いやあ、ありがたいですねえ。

やはり、コメントをいただくと読んでいる人のことを感じられるので、すごくやる気が湧いてきますね。

みなさん、一言、二言でもお気軽に書き込んで下さいね。

 

 

さて、高杉さんもおっしゃっていますが、

比較、他者評価にとらわれたくないんですよ。

本当にそう。

他者からの評価に縛られることは、他者の人生を生きること。

自らの人生に意味を見出し、自分の人生を生きたい。

私にとって、大きなテーマです。

 

そう。

本気で他者評価をきにしないようになりたい。

 

なりたいんですけど・・・

 

とらわれてしまう

 

今日も他者評価を気にしてる自分に気がつきました。

 

ガッカリする反面、ある程度仕方ないかなあ。とも思っています。

そもそも、我々は賞罰教育を受けてきてますからねえ。

他者からの評価を気にして、生き抜いてきたといっても過言ではないでしょう。

 

だから私は、こんな歳になり、先生になっても・・・

先生に認められたくてしょうがないです。

 

今日は卒業式準備委員会で、「毎年歌っている合唱曲を変えたい」という提案が音楽専科からありました。

 

その意図を聞くと、

「今の5、6年生の声質にあっている。」とか、「曲調があまりインパクトがない」

ということでした。

 

正直、感覚的な話で議論のしようがないなあ、と思いました。

しかし、今の6年生が5年生の時に、卒業式の歌に思い入れをもち、

「自分も6年生になったら歌えるんだ・・・」と憧れている場合があることも考慮した方がいいと思いました。

 

「なんで歌変えるんですか?」と聞いてきたときに、納得いく答えをもっていたいと思ったからです。下手したら保護者からも電話が来るパターンかな。

 

 

そもそも、私は何事も先生が主導して決めるのではなくて、あくまでも子どもに、選択と決断を迫っていったほうが、本気にさせることができると思っています。

 

なので、

 

「6年生と、音楽専科が話し合って候補曲をいくつか提示し、実行委員の子どもたちと決めてはどうか。」と提案しました。

 

しかし、答えは・・・

 

「まあ、行事だからね」

 

行事は教師主導なの??

 

そもそも学校行事の目標って学習指導要領によると・・・

 

〔学校行事〕
1 目標
 学校行事を通して,望ましい人間関係を形成し,集団への所属感や連帯感を深め,公共の精神を養い,協力してよりよい学校生活を築こうとする

自主的,実践的な態度

を育てる。

 

なんですよね。

 

そして、儀式的行事については次のように書かれています。

 

 

(1) 儀式的行事
 学校生活に有意義な変化や折り目を付け,厳粛で清新な気分を味わい,新しい生活の展開への動機付けとなるような活動を行うこと。

 

 

つまり・・・

◯変化や折り目をつけられる。

◯厳粛で清新な気分を味わえる

◯新しい生活の展開への動機づけとなる

 

以上を条件に出して、子ども主体作ってもいいのではないのかな。。。 

 

なんてことを考えたので

その場で得意気になって、学習指導要領の文を引用して反撃してしまいました。

 

みんなもっと私の言うことに耳を傾けてよ。

という気持ちの裏に

ほら、学習指導要領を引用して卒業式のあり方について、意見しちゃってるよ。ほら、すごいでしょ。認めなさいよ。

 

という気持ちになっていることに気づきました。

 

この気持ちって、小学校の時も感じていた。

学級会などで何か議論しているとき、自分の考えが一番上等なものに見えてたし。

いい意見をいうことで、周りの友達に「すげえ」などと言われるのが大好きでした。そして、学級会の最後なんかでも先生が褒めてくれるなんてこともね。もう最高の経験です。

 

その感覚が未だに残っているんですよね。

「先生になっても、先生に認められたい」

 

結局そこなんだよなあ。

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先日、こんなツイートを投げたら、予想外にバズって二重で驚きました。

「妻と雑談してて驚いたのですが、世の中には「同じ空間で他人が褒められていると劣等感を抱く人」がいるんですね。
「あの人は褒められて、なんで私は褒められないんだろう、私はやっぱりダメなんだ」みたいな。
ぼくはそういう感覚ゼロだったので、素直に驚き。でも、こういう人は多いんでしょうね。」

こうしたシーンで劣等感を抱く人は、ぼくが思っているより多いのかもしれません。みなさん、なかなか繊細なんですね……。

この心理というのは、突き詰めていくと

「無意識レベルで、他人と自分を比較してしまう」

という話に行き着くのではないかと思います。

自分とは関係のない他人について、なぜか比較してしまう。
友だちや同僚が活躍すると、焦ってしまう。
ともすると、嫉妬してしまう。

その一方で、自分が活躍することにも、どこか気兼ねしてしまう。
自分が前に出ることで、誰かの気分を害してしまう気がする……。

こうした心理は行動力を落とすので、人生の早いうちに振り払っておきたいものですよね。

うちは2人の娘がいますが、彼女たちにもこういう心理を抱えておとなになってほしくありません。

というわけで、どうすれば「無意識レベルで他人と自分を比較してしまう」ことから抜け出せるか、考えてみました。

1. 他人の評価は、絶対的なものではないことを理解する。
かくいうぼくは、他人の評価とかまったく気にしません。

というのも、ブログを書いているとわかるんですが……他人の評価って、ほんっとーに!あてにならないんですよ!

経験上、他人の評価や意見が役に立った経験は……ほとんどありません。傲慢なようですが、これほんとうなんです。

ネガティブな反応を貰おうが、ポジティブな反応を貰おうが、自分の事業、自分の人生とは無関係と言わざるをえません。

特に、ネットで見知らぬ他人から届く評価とか、ゴミ箱にそのまま捨てていいレベルで無益です。気にするだけ時間の無駄。

たとえば、あなたがこの書籍を「役に立たない」と評価したとします。そしてブログに「イケハヤの新刊はダメダメだった」と書いたとしましょう。

ぼくはこうした評価は一切気にしません。

「まぁ、そういうこともあるよね」という程度の反応でしょうね。

その逆に「すごく役に立ちました!」という意見にも、特段耳を貸さないでしょう。

「まぁ、そりゃ役立つこともあるよね」という程度です。

ひとつの事象についての評価なんてものは、受け手や時代、タイミングによって大きく変わるんですよ。

ぼくが大好きな作曲家のマーラーは、存命中は評論家からボコボコにdisられていたそうです。「マーラーの音楽など、音楽じゃない」と言われながら死んでいった彼は、今では伝説的な作曲家ですね。

これとは逆に、ヒトラーなんかは生きていた時代に多大な支持を集めていたわけですよね。今では虐殺者、大悪人の代名詞であるにもかかわらず。

こういった逸話は枚挙にいとまがありません。人の評価なんてものは、そのくらいあてにならない。これは歴史的な事実なので、評価や意見は気にするだけ無駄。

あなたが評価されたとしたら、それはたまたま、タイミングや環境がマッチしていただけ。

あなたが評価されなかったら、それはたまたま、タイミングや環境がマッチしなかっただけ。

それはもう、そういうものです。

他人の評価というものは、それくらいコロコロと変わるものであって、まったくあてにならないんです。これをよく理解することから始めましょう。

 

教師の評価って、ものすごく曖昧じゃないですか?

 

セミナーなどで出会った、本を出すようなすごい先生方も、様々な軋轢に悩み、憤りを感じ、それでも信念を貫こうと必死で足掻いているように見えました。

(そういうところに、すごく親近感を覚えて嬉しかったし、逆に活力を得たから、本の中のカリスマ教師をよりリアルに感じてもらおうと、CKenを立ち上げ、居酒屋でセミナーを開いたのですが・・・)

 

考えてみれば当たり前の話なのですが、教師である以上、常に「自分」のことを評価してくれる環境などは、まずあり得ないはずなのです。

 

その理由は、教師、保護者の思想、信条は人それぞれということ。

 

たまに、子ども同士のトラブルを保護者に報告すると

「うちは、やられたら2倍にやり返せって子どもに言ってますから(キリッ)」

という謎の決め台詞を吐き捨てられて、巧妙に議論をすり替えられることがありますが・・・

 

「心底どうでもいい。」

「だからなんなの?」

 

まあ、私などはそう思うのですが。

そういうことを言う保護者も、至ってまじめにご自分の教育観を語ってくださっているのでしょう。

まあ、極端かもしれませんが、それだけ価値観やら、その人によって、思想、信条、教育観は違うという、一例だと思うんです。

 

これは、保護者の一例ですが、仲間である先生方も、お一人お一人、全然違う教育観を持っている。

 

だからこそ、

困惑して悩み、いつまでたっても認められている気がしなくて、埋もれている感が強くなる。

すると、

自分に自信を持てず、自己主張ばかりが強くなって、他人を攻撃したくなる。

 

私などはそうでした。

 

そうならないように

 

常に自分の考え方が一番!ではなくて、自分の考え方で救われる子もいる。ほかの先生の考え方で救われる子もいる。

大多数に認められる先生には必ずアンチもいるはずです。
逆に、大多数がアンチに回る先生にも、隠れた信奉者がいるかもしれません。

 

そんな風に考えられれば、結果として、救われる子どもの総量は増えないかもしれないけど、救われる子どもの種類は増えるのではないでしょうか。

 

まずは、ご自分の在り方、生き方をよくよく見つめ直すことだと思います。

 

そうすると、

あの先生は、あの先生。

私は私。

 

という風に、いい意味で評価を気にしなくなります。

自分の思想、信念が形作られて、確固たるものになると不思議と他者に寛容になれる気がします。

そして、それは、自分にも寛容になれるからでしょう。

 

「自分ってこういう人間で、こういうことを大事にしたいんだもんな。」

 

そう思えれば、その職場で評価されなくても、無理に周りに合わせて自分を変えよう変えようとしないでしょう。

前向きにほかの環境を探そうとするでしょう。

 

ぜひぜひ、自分の在り方を見つめ直しましょう。

 

ご興味ある方は一緒に学んでいきましょう!

 

幻冬舎社長 見城徹さん

最近755で、見城徹さんのトークルームをのぞいています。

 

755って、グループラインを公にしている感じです。

自分のトークルームでは、ツイッターよりもガッツリつぶやけるし、ガッツリ絡まれる。そんな感じ。

 

ホリエモントークルームとか。

ググレカス」とか「いいね」とか、返信が超あっさりしてますが、見城さんのトークルームはガチです。

 

めちゃくちゃ熱い

 

例えばこんな。

 

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そもそも、幻冬舎って、そんなに新しい会社だったんだ。と驚きました。

 

あとは、こんなやりとりも

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こんなに赤裸々に語るんだなあ。

 

 

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秋元康さんも参戦。

 

 

 

 

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 こんなやりとりも。

 

正解な言葉を考えて、考えて、考え抜けば自己検証がクリアになり、言葉と実践が一体化し、モノゴトは自分のイメージに向かって動き始めます。

 

DAFLでやっていることってこういうことなんだろうな。

今、この言葉を実感しています。

二川さんありがとう。

 

 

あと、私が一番奮い立たされたのはこの言葉です。

 

何故、憂鬱になるのか?
それは他の誰にも出来ない「達成」を自分に課すからです。
「絶対に逃げない」
そう決めるからです。
他の誰かができるようなことをしていても大きな結果は出ません。
「憂鬱」にならなければ駄目なのです。
だから、「憂鬱」こそ黄金の果実の素なのです。
憂鬱でなければ、仕事じゃない。
憂鬱こそ我が友。
だから、昨日までの自分を振り切って、もう一段ギア・チェンジ。
オーバー・ザ・トップ

 

いろいろな本に影響され、

「これからの時代は楽しくない仕事は仕事じゃない」

そんなことを考えてしまっていましたが、違いますよね。

これからは、「誰もができる仕事」は、なくなっていくでしょう。

 

働ける人は「その人だけができる」なにかを持っている人だけになるはず。

 

先生という仕事なんて、まさにそう。

その先生にしか出来ないことを持っていないと、先生でいる意味がない。

近所の兄ちゃん姉ちゃん。おじさん、おばさんと変わらないのなら、我々教師に価値はない。

 

教師という仕事に一生懸命に取り組むということは、日々チャレンジの連続、不安やリスクと常に隣り合わせで、憂鬱になるのが当たり前。

 

 

「他の誰にも出来ない達成を自分に課す」

こんなことを考えてもいなかった。

クラスの誰かが、ボンベイ先生でよかった。って言ってくれればいいや。ぐらいに考えてました。

 

きっと、どんな業界でも、突き抜ける人って、無意識にきっと他の誰にもできないことをやろうと常に勝負しているんだろうなあ。

 

そんなことを考えさせられました。

 

自分にとって「社長」という人は遠い存在です。毎日おいしいものを食べて、思い通りの人生を過ごしているものと思っていました。

でも、やっぱりどんな人も日々いろいろ悩んで精一杯生きているんだなあ。としみじみ思えます。

 

「みんないろいろな事情を抱え、それぞれのストーリーの中で最善を尽くして生きている。」

そんなことをこうしたSNSを通して知ることができると、周りの人たちに少し優しくなれますし、頑張ろうという気がします。

 

私がやっているブログもそうありたいものです。

日々一生懸命やっているところをもっと発信しなくては。